※ものすごくどうでもいい自分語りです。
先日、久しぶりに夢小説を読んだ。
「夢小説」とはー
「主にウェブ上で公開されている、特定の登場人物の名前を、読者が自由に設定して読むことのできる小説である。読者が閲覧前にクッキーやJavaScriptなどで名前を登録しておくことにより、小説内の特定の人物の名前が登録した名前に変換されて表示される」
Wikipediaではこう説明されている。
その夢小説も上記に合致したもので、その小説内でのヒロインの名前を登録できた。
私は、当然のようにいつも使用している夢小説名を入力した。
何年ぶりだろう。久しぶりにWeb上の小説の夢の世界に行けることにわくわくした。
だが、読み進めていく内に何かが引っかかるような感覚があった。
決してその夢小説自体の文章が合わないだとかそういう話ではなく、自分に原因があるような。
少しの間の後、
「あぁ、そうか。夢人格が自分に同化してしまったんだ」
と思った。
それは自分としてはとても納得のできる回答だった。
私が「夢小説」に初めて出会ったのは、自分が小学5年生の頃。現在から干支一回り以上前の話だ。
「こんな素敵な世界があるんだ!」
当時の私は感動して、迷わず自分の本名を登録した。
でも、その夢小説を心から楽しむことはできなかった。
なぜなら、夢小説の中のヒロインと自分自身を結びつけることができないから。
例えば、菊丸英二が「〇〇(本名)の髪はサラサラしてて気持ちいいにゃ」だとか言おうものなら、「チリチリのくせ毛がコンプレックスである私が!?はぁ!?」と思ってしまうし、跡部景吾から「面白い女じゃねーの、気に入ったぜ」と言われたところで「私はこの場面でこんな行動する勇気はないなぁ」と思ってしまう。
当然の話なのだが、夢小説のヒロインが自分と全く同じ見た目や性格をしていることはまずありえない。
どこかで必ず自分自身との乖離が気になり出して、夢の世界に没頭できない。
少なくとも私はそうだった。
この状況に対して当時の自分がとった手段。
それは「本名とは別の夢小説用の名前をつくり、登録する」というものだった。
「成田 らいむ」
私は、夢小説上のヒロインにこう名付けた。
せっかくなので、と候補になる名前をいくつもあげて、数日間、真剣に悩んだ。
苗字は、当時なぜか「成」の字のつく名前に憧れていて、書いた時の字面も綺麗だったから。
名前は最終的に響きを重視して決めたが、決めてから、「らいむ」を漢字変換すると「来夢」となることに気付いた。
「夢」が「来」る。まさにこの世界においてぴったりな名前ではないか、と今思えば幼い思考ながら、当時の私は密かに得意気になった。
彼女は変幻自在な女の子だった。どんな人格にも見た目にもなれる。
いかなる設定の小説も、本名の時のようにいちいち躓かずに読むことができた。
しかし、だからと言って、完全に自分と切り離されているわけではない。
わざと下の名前に自分の本名の持つ響きを入れたことで、どこか自分のようにも感じることができた。
半分が自分であり、半分が他人のような不思議な存在。
ある時は青春学園3年生であり、別の日には護廷十三隊の死神であり、時には木の葉の里の忍だった。
設定が強く出る部分は「らいむ」、自分が感情移入したい場面は「私」として、当時の私は夢の世界を存分に楽しんだ。
様々な物語の中に入り、体験を共有した。
「らいむ」に対して、自分自身であるのに一方で相棒であるような感覚を持った。
それから10数年。
時代の流行や自分自身の環境の変化により、夢小説を読むことはほぼ全くなくなった。
それでも、乙女ゲームをする時やその他ソーシャルゲームをする際には、いつも「らいむ」の名を使用した。
ある時、この名をより日常的に使うことになる場面が訪れた。
自分としては初めて作成する、Twitterの趣味アカウントの名前だ。
当日券で入ったテニミュチムライの公演で声をかけた隣席の初対面の方と仲良くなり、お見送り待ちの間も話し続けた。
その相手の方が「よかったらTwitterのアカウントを教えてもらえませんか」と言ってくださった。「この方とまたお話したい」という思いから、今まで持っていなかった趣味垢を作成した。
その日から私は現実世界でも「らいむ」になった。
Twitterで繋がったフォロワーさんと会う時。お取引の時。
最初は挨拶しようとしても咄嗟に本名が出そうになることがあったが、数ヶ月もするとすっかり慣れた。
趣味垢を作成した当時は地元を離れた関東に住んでおり、本名のファーストネームで呼ばれる機会より、現場で会う方に夢小説名で呼ばれる機会の方が多かったような気すらする。
そして様々な方に「らいむさん」と呼ばれる度に、彼女はどんどん「私」に同化した。
いつの間にか彼女は、半分自分・半分他人のような存在から、ほとんど自分とイコールの存在になってしまった。自分と切り離せなくなってしまった。
今、夢小説をその名で読むことに違和感があるのはきっとこのためだ。
今ではもうあの頃と同じ気持ちでは彼女と一緒に夢の世界に行くことはできない。
寂しい思いがないと言えば嘘になるが、趣味垢を作成したことや、アカウント名を夢小説名にしたことを後悔する気持ちは決してない。
趣味垢での出会いは素敵なものが多く、好きなものについて語ったり、連番したりご飯に行ったりできる大好きな方がたくさんできた。
今までいわゆる「リア友」以外にオタクごとを話せる友人がいなかったので、居住地も年齢も違う方々と知り合えるのはとても楽しくて、現実世界での「らいむ」としての経験はどれも忘れられない思い出だ。
久々に夢小説を読もうと思ったきっかけは、趣味垢で出会ったフォロワーさんにオススメの夢小説サイトを教えていただいたことだった。
そのフォロワーさんとはTwitterで出会い、今ではお互いに本名呼びをしている。私にとって、アカウント名から本名呼びに変わるという経験は初めてだった。まさに夢人格と自分の境界が曖昧になるような出来事だなぁと謎の感慨に浸った。
新しい夢小説名を考えようと思う。
いい年こいた大人が何を言っているんだ、と我ながらひしひしと感じるが、せっかく久しぶりにみる夢の世界は、最善の状態で楽しみたいなぁと思う。
新しい夢人格にも、いっぱい悩んで素敵な名前をつけたい。
人生の半分以上を共に歩んできた「らいむ」のように、大好きないい相棒になってくれたらいいなぁ。
くそ恥ずかしい上にオチのない話を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
いわゆる「夢女」「夢女子」さん方の内、自分と同タイプ(本名を入力できない)の方は何割ぐらいなんだろうなぁとふと思いました。世代によって違ったりするのかなぁ。